今回はピースメッセンジャーの奥田さんをお迎えし、戦時中の暮らしぶりや堺大空襲があった時のこと、その後どうやって生きてきたかなど、奥田さんが体験された“戦争”を聴きました。
奥田さんは堺大空襲を被害の大きかった旧市街地で体験されました。
実際に堺大空襲の日、奥田さんの家の裏は、空襲警報からものの1,2分で火が一面に広がって真っ赤だったそうです。
この日は警戒警報がなかったので、奥田さんとご家族は大慌てで避難しました。命からがら東光寺までたどり着き、一晩中(空襲は午前1:30頃から始まった)お墓で座っていました。
空を見上げると、敵機がどんどんどんどん爆弾を落としています。それが空中で爆発し、1メートルぐらいの火となって落ちてきます。動けずに、とにかく座っていました。
やがて夜が明け、立ち上がると──見渡す限り何もありませんでした。
奥田さん一家は泉南の方へ移り住み、奥田さんは中学も卒業していませんでしたが、生活のために働いていたそうです。
奥田さんの戦争体験談を聴いた後、質問タイムがありました。
学生さんたちからは“「警戒警報」と「空襲警報」の違いは?”や“子どもの時家族のために就いていた仕事の内容は?”などたくさん質問が出ました。
また、戦争を知らない学生さんたちから出る質問に、「そんな時代じゃなかった」という奥田さんのお答えもあり、学ぶことの多さや語り継ぐことの難しさも感じました。
最後に奥田さんは次世代の語り部へのメッセージとして、「とにかく外国と戦争せんこと、日本としては戦争せんこと。犠牲になるのは国民ですからね。平和のことを考えるのが一番なんじゃないですかね。」とおっしゃいました。
前回の久保さんのお話と通じるものがあり、改めて大事なことが心に響くようでした。
次回は再び平和と人権資料館へ行き、ピースメッセンジャーの中野さんの戦争体験談を聴かせていただきます。また、3人のピースメッセンジャーさんがお見えになりますので、たくさん質問をして、堺大空襲についてもっともっと掘り下げていきます!